オンラインカジノ “人間操作”の正体

初回放送日:2025年4月20日

https://www.nhk.jp/p/special/ts/2NY2QQLPM3/episode/te/NZNL4548GG/


2025.5.15

■ 感想の要約

この番組を通じて、オンラインカジノは単なる運まかせのギャンブルではなく、プレイヤーの行動を綿密に観察・操作する仕組みを持っていることが明らかになった。
具体的には、プレイヤーが辞めないように、あえて勝たせたり、特典(“ハッピーピル”)を与えたりして継続させる仕組みが存在する。
依存症のような状態を意図的につくり出し、最終的には金銭を巻き上げていく。このプロセスは単純なトリックではなく、個人ごとのデータに基づいたアルゴリズムで成り立っていると感じられた。

また、番組を見ながら自然と、「他の類似サービスと何が違うのか?」という問いが浮かび上がった。


■ 比較と考察:他の“似た仕組み”との違い

  • 公営ギャンブル
     競馬や競艇などは、あくまでレース結果に基づいた公正な勝負であり、プレイヤー個人を監視・操作するような仕組みは存在しない。よって、オンラインカジノのような構造とは明確に異なる。

  • パチンコ
     一部で「遠隔操作」が噂されることもあるが、一人の客に対して個別に操作する手間と費用に見合うメリットは少ない。したがって、現実的にはオンラインカジノのような「個人単位の操作」は考えにくい。

  • 課金ゲーム
     最もオンラインカジノに近い仕組みを持つと考えられる
     ユーザーによって支払額は0円から数十万円まで差があり、運営側は高額課金者を優遇・維持するための行動分析や最適化アルゴリズムを持っていると推察される。
     報酬の与え方や演出を調整することで、長期的に課金を促す仕組みは、オンラインカジノの“人間操作”と構造的に重なる。


■ 視点の広がり:日常に潜む「ハッピーピル」

今回の番組で紹介された「ハッピーピル」(ご褒美による操作)は、金銭やギャンブルに限った話ではなく、日常の中にも広く存在する
たとえば、人を褒めることも相手の行動を強化し、次の行動を引き出す“ご褒美”である。
行動心理の基本には常に報酬がある。それは善にも悪にも働き得るため、意図して使うか、無意識に使われるかで、大きな差が生まれる。


■ 総括

オンラインカジノは「勝てるかどうか」の勝負ではなく、「いかにやめさせないか」に特化したシステムで成り立っている。
そして、その構造は一部の課金ゲームにも共通し、日常のコミュニケーションにも応用されている。
今後私たちは、報酬と操作の境界をどう見極め、どのように向き合うかが問われていく。


■ 番組内で登場した青年についての考察と疑問

概要:

番組内で取り上げられた青年は、親と連絡を絶ち、アパートに引きこもりながらオンラインカジノを続けていた。
借金は闇金にまで及び、ついに親に発覚。依存症回復支援の団体スタッフと共に家を訪ねられ、本人も依存症を認めて施設に入所した。
しかし、数か月後には回復施設から失踪し、行方が分からなくなった。


疑問:

この失踪には、いくつかの可能性が考えられるが、動機がはっきりしない

  1. **「ギャンブルをやりたいのにやれない苦しさ」**に耐えきれず、施設を出たのか?

  2. **「働いていない自分への嫌悪感や無価値感」**に耐えられなかったのか?

いずれにしても、本人の中で何かが限界を迎えたことは確かだが、その内面の動きが見えづらい。


疑問の背景にある論点:

  • 回復施設では、ギャンブルに対する認知の見直しや行動の制限など、段階的なプログラムが用意されているはずであり、そこに数か月もいれば、少なくとも「賭けても無駄だ」という理性は育ってくるのではないか。

  • 特に依存症の回復支援では、負けるメカニズムの理解、自己分析、感情の整理などを繰り返し行い、再発防止の心理的な“ブレーキ”を強化するはず。

  • それにも関わらず、なぜ彼は施設を離れたのか?という点に、**制度の限界や本人の背景要因(自責感、孤立感など)**が関係している可能性がある。

心に残った言葉:「また会いたいですね」

回復施設で一緒に暮らした男性が、失踪した青年について語った言葉――
「また会いたいですね」

この言葉は、「生きていれば、また会えるかもしれない」という願いと祈りが込められているようだった。
裏を返せば、最悪の可能性――彼が命を絶ったかもしれないという現実を、静かに受け入れつつも、なお希望を持とうとする、重く切ない表現だった。


この一言が示すもの:

  • 回復の道は、単に“ギャンブルをやめる”だけでは済まされない。
     孤独、無価値感、逃げ場のなさ、社会との断絶――そのすべてに向き合う必要がある

  • 依存症は、意思の弱さや性格の問題ではなく、人と人の関係が絶たれたときに深まっていくもの

  • 「また会いたいですね」という言葉は、再生の難しさと、それでも繋がりを願う人間の温かさを象徴していた。


この言葉をもって、青年の物語は「終わった」のではなく、今もどこかで続いているのかもしれない。
その未来が再び人とつながる場所であることを、祈るような気持ちで見届けた。


エスカレーターはなぜ左を歩くか

2025.5.15

■ 状況説明(運用側・メーカー側・ユーザー側の視点を統合)

日本の多くの地域では、「エスカレーターでは左側に立ち、右側を急ぐ人のために空ける」という慣習が定着している。(左or右は地域による)
しかし、この慣習が接触事故や転倒の原因となるケースもあることから、鉄道会社や商業施設などの運用側は「歩かずに立ち止まって利用してください」といった啓発活動を行っている。

また、いくつかの自治体ではこの方針を条例化しており、例えば埼玉県では2021年に「エスカレーターの安全な利用の促進に関する条例」が施行され、エスカレーター上での歩行が禁止事項として明文化されている。

一方、利用者側には現実的な事情がある。
例えば、通常どおり左側に立っていると、後ろから右側を走ってくる人が接近してくる。本来は条例やマナーに従って「どく必要はない」はずであり、急ぐ人が歩いたり走ったりすること自体が禁止されている。しかし、現実には走ってくる側が相手に構わず「どけ」と圧力をかけてくる場合が多く、まともに対応しようとするとトラブルに発展しかねない。

このような経験を踏まえ、トラブルを避けるために最初から右側に立つという選択をする人もいる
特に、弁護士、警察官、教師、会社の代表者や重役など、社会的責任の重い立場の人々ほど、「無用な衝突を避ける」ためにあえて右側に立って歩行者のスペースを塞がないようにする傾向がある。
これは「片側空け」に賛同しているのではなく、正論が通じない場面で自分の安全を守るための現実的判断である。

また、エスカレーターメーカーは「片側利用は設計上想定していない」とは述べるが、「片側に乗ったからといって壊れる」と明言しているわけではない。
一方で「壊れません」と言えば、片側乗りを容認したと解釈されるおそれがあり、責任の所在が自社に及ぶ可能性があるため、意図的に明言を避けている。これは法的責任のリスクマネジメントと見るべきである。


■ 考察

  • 利用者が右側に立つのはマナー違反ではなく、現実的な“自衛手段”として選んでいる行動である。

  • 運用側・自治体・メーカーは、安全を口実に啓発や規制を行っているが、実際には「責任回避」を重視した判断といえる。

  • 啓発していれば「注意はしていた」と主張できるが、していなければ「安全配慮義務違反」とみなされる可能性があるため、最低限の周知活動を行っている。

  • 「左に立つこと」が正しくても、現場では「正しい行動をする側が損をする」構造があり、結果として利用者に理不尽な選択を強いている



■ 結論

エスカレーターの利用ルールに関しては、運用側・製造側・行政が掲げる「安全第一」の理念と、現実の利用者が直面する理不尽な力関係やトラブル回避の必要性の間に、大きなギャップが存在している。

特に、「歩くな」「左に立て」というルールがある一方で、それを守った利用者が後ろからの圧力や危険行為にさらされる現実があることを無視して、単に啓発だけを行うのは不十分である。

また、メーカーが「壊れます」とも「壊れません」とも言わないのは、技術的な話ではなく、法的責任を負わないための表現戦略である。

この問題の本質は、「安全性の確保」だけでなく、
“誰が実害を受け、誰が責任を逃れるか”という現場と制度のねじれにあるといえる。



駅で通勤時間帯、人はなぜ四列に並ばないのか

2025.5.15

■現象の観察と状況説明

  1. 「4列で並んでください」と言われているのに、ほとんどの人は2列で並ぶ
     → これは日常的に見られる現象である。

  2. 人は「1列」ではなく「2列」には自然と並ぶ
     → これは暗黙の了解であり、個々が無意識に行動している。
     →ただし地方駅では2列にすら並ばずに1列で長い列をなす。

  3. 駅ホームの一部は幅が5m程度しかなく、1列だと3人で通路を塞いでしまう
     → このため、1列は実用的でない。

  4. 地面には4列の丸いマークがあり、放送でも4列を推奨している
     → 視覚と音声の両方で案内しているが、守られにくい。

  5. 実際にそのマークの間隔は窮屈であり、立ちづらい
     → 心理的・物理的に抵抗がある。

  6. 3人目が2人の後ろに並んでしまうと、4人目は割り込みを避けて後ろに付くため、結果的に2列になる
     → 最初の1人が重要な「並び方の型」を作ってしまう。
     →3人目は、はじめの2人の横に並ぶのは5の理由もありかなり困難

  7. 朝のラッシュ時には駅員が人を整理し、強制的に4列にすると従う
     → 強い指示があると4列になる。つまり不可能ではない。

  8. 武蔵小杉駅のような超混雑駅では、巨大ポスターで4列を強調
     → 通路が狭いためせざるを得ない。。

  9. 4列になると、電車到着時に外側の人が乗りにくくなる問題がある
     → 結果的に2列目の人が先に乗るケースもあり、4列の人が損をする。

  10. 「待機時は4列」「乗車時は2列」が最適だが、それを自然に切り替えるのは難しい
     → 並ぶ人の立場からは非合理的に感じられることも。


■考察:なぜ4列にさせようとするのか?

●利用者側だけで考えると、4列は不利

  • 外側から乗りにくい

  • 先に並んでも後から来た人に先を越される不公平感

  • 窮屈で物理的に立ちにくい

→ だから自発的に4列に並ぶメリットがない。

●それでも運用側が4列を求める理由は何か?

1. 混雑緩和と通路確保

  • ホーム上の通行スペースを確保し、動線を明確に保つため。

  • 並ぶ人が長く1列や2列に広がると、ホーム後方や端の人が通れない・危険になる。

2. 秩序ある乗車と列の可視化

  • 「どこが列の最後か」が分かりやすくなり、割り込みやトラブルが起きにくくなる。

3. 駅員の介入コスト削減

  • 駅員が毎回整理しなくても、ある程度自然な秩序が保たれるようにしたい。

4. 事故時の責任回避・リスク管理

  • 事前に「4列に並ぶよう案内していた」という安全対策の証拠が重要。

  • 実際に事故が起こると、過失を問われ、損害賠償・行政指導・報道被害に発展する可能性がある。

  • それを避けるためには、「注意喚起していた」という事実を作っておく必要がある。


■結論

  • 利用者視点では「2列で合理的に乗りたい」というニーズがある。

  • しかし運用側は「混雑対策」「安全確保」「責任回避」のために4列を要請している。

  • 特に重要なのは安全対策を怠ったと見なされると、事故発生時に運営側が
     100%責任を問われることになるという点である。
     → 「なぜ4列に並ばせる案内をしていなかったのか」と問われ、完全に過失扱いとなる
     → これは法律的にもメディア的にも回避不可能な責任である。

したがって、「4列に並ぶこと自体が便利かどうか」ではなく、
「予防措置を講じていたという既成事実を作ること」が目的であり、
それは責任から逃れるためではなく、責任を果たすための最低条件でもある。



ケーキの切れない非行少年たち
実際の実験

5歳児に試してみた。とても興味深い結果となった。


左が非行少年たちが書いたケーキ三等分の図。右は5歳女児の書いた図。
女児には「パパとママとあなたでケーキを3つに分けて。同じ大きさだよ。自分だけ多くしたらダメだよ」と言って書かせた。
結果、4等分となってしまったが、余った1つは友達にあげるのだそうだ。



上は自分が書いた絵、右は5歳女児の書いた図。
本の下部は不良少年が書いた絵。

考察

実験結果から、非行少年の図を写す能力は、5歳と同じくらいのように見える。似ている。

この書き写しがある程度できるようになる過程は、自然に覚えるか、自然に覚えるよう誘導するか、教えるか、が考えられると思う。
5歳の場合、紙に絵をかくことが割と好きだし、外で遊ぶことも自由に行っている。割と活発な子だ。

非行少年は、非行を行うまでの15年間ぐらいで、これくらいの能力しか育たなかったという事になる。
それは育つ場面が無かったし、与えられなかった、教えられもしなかったのだと推測する。
どうして、そうなったか。責任は全部親だと思う。

これを書き写すためには、見る力が必要なのだとこの本の筆者は言う。
見たものを正確に認識する能力だという。
これは、紙に線を書く能力に限ったことを言っているのではなく、物事を正確に認識する力という意味なのだ。
だから、これができないということは、いろいろ世の中のことを、歪ませて間違って認識することになると。
簡単に言えば、そういう間違った認識が非行に結びつくようなのだ。
非行は、物事を間違って捉えて、それにより怒り、非行におよぶ。

あとがき
少年院に入った子たちは、まずドリルをやらされるのだという。不足している能力を鍛えるためのドリルだ。
鍛えれば成長していくようなのだ。不足している能力を成長させて、少年院から出るのが目標。
ということはこうなった理由の原因である能力不足は、
能力不足となった理由は、教えていなかった、教える場面が無かった、そういう事に間違いないと思う。
そして、いろいろな能力が足りないまま成長していき、小学校高学年くらいから悪いことをしだしていく。

経験上、悪いことをする子供の親は、そういう親であることが多い。



2020.4.27
乳児虐待

非行少年は感情を抑えるのが苦手で、特に怒りを抑えるのが苦手なのだそうだ。感情のコントロールが上手でないということ。
また、想像力が足りないゆえに、怒りがすぐに湧いてきてしまう。

怒りによって引き起こされる二次災害はたくさんある。

「犯罪を犯して施設に送り込まれた子の半数が、虐待を受けている」
こんなことが本に書かれていた。
とても興味深いし、重要なことだな。半分もいるのか、ということ。

必要なしつけや、教育をされなかった場合、
上の図が上手に写せなかったり、怒りを抑えるのが苦手になるのだと推測できる。
虐待をしていた家庭で、その教育やしつけが、できていると思えない。


ここで自分が見た乳児2人を見て感じたことがある。
乳児はいつでも泣いている。理由もわからず泣く。泣き声というものは、怒りが湧いてくるのだ。
怒りが湧いてくる、という生理的現象?は否定できない。というのは、逆に一生うるさい状態で平常心が一生続く人間がいるのか?と。
でも、自分は怒りが湧いてきても乳児を虐待はしなかった。

しかし、感情を抑えるのが苦手な人間が、親になり、子を育てることになったらどうなるか。

最近思っている。この感情は一歩間違えれば虐待につながる可能性は十分にあるな、と。



2020.4.27


TOPに戻る